「戦争」へのきな臭さを感じることができる世代!

8月15日を過ぎると「戦争への反省」を込めた番組もすうっ~と少なくなります。今年は、逆に「零戦賛歌」のような向きも見られました。

私を含めて戦後生まれの私たちは、少なからず「戦争の匂い」を知っています。戦(いくさ)は違っても、祖父母や父母や親せきから「昔はね。」「あのころはね。」「戦争中はね」などということを頻繁に聞いたものです。駅頭には、「傷痍軍人」が募金を仰いでいる姿もよく目にしました。そういうものを総合すると「日本は、侵略戦争という点で大きな過ちを犯したこと」「二度と戦争をしないという誓いをしたこと」「それは、世界へ向けての誇り」として良い」という自覚でした。

戦没者230万人:兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち 半藤一利さんインタビュー2014年08月15日の記事も新鮮に読みました。

最近受け取った「パリ滞在の友人からの手紙」にまたまた目を洗わされました。以下、一部ご紹介します。

  「兵役のがれ」と「良心的兵役拒否」

          わたり鳥99号    2014年8月  パリ発 のぶこ

  隣人リーザの父親フレッドから聞いた話である。彼は1950年代に兵役のかわりに宗教的理由から代替任務についた。イギリスの徴兵制度は第二次大戦が終わったあとも続いていた。これはフランス、ドイツなどヨーロッパ諸国に共通している。ヨーロッパはソ連や東欧諸国と国境を接していたから、大戦後の冷戦に対して十全の備えをしなければならなかった。アメリカの傘によって守られ、もっぱら経済復興に力を傾けることができた日本とは、戦争後の条件が違っていた。

フレッドは大学を終えるまで兵役を延ばし、23歳で応召した。彼はかねて考えていた通り「代替任務希望」と申請した。宗教的あるいは主義信条に基づき「良心的兵役拒否」を申請し、代替任務につく権利が法律で定められたのは、イギリスでも戦後になってからだ。認められるための審査は厳しかった。軍と宗教者と行政官からなる審査委員会に出頭して、申し開きをしなければならない。

英国国教が主流をなすイギリスで、フレッドはプロテスタント・メソジスト派の信者として、日曜ごとに礼拝に出席し、奉仕活動も積極的に行う青年だった。審査官の前で彼は聖書を豊富に引用し、「イエスの教えには人を殺すことを容認する言葉はどこにもない。武器を手にすることは神の命令にそむく。しかし自分は祖国イギリスへの深い愛を持ち、そのために任務を果たす用意は十分にある」と落ち着いて陳述した。前もって原稿を書き、入念に練習したという。申し立ては認められた。彼の前に8人の申請者がいたが、理由不十分で「兵役回避者」とみなされ、全員投獄されたという。え、まさか投獄?!さよう、半年の懲役刑を食らう。「半年の刑務所と2年半の代替任務とどっちが得かと考えたよ」と笑うが、期間は短くとも兵役回避者には有罪の烙印が一生ついて回るということだ。

代替任務としては爆弾処理、危険地の消防、軍服軍靴製造、そのほか鉱山労働、土木作業、山の森林切りだしなど、人の嫌がる危険な仕事がほとんどだった。フレッドは精神病院の看護師を勤めた。1950年代のイギリスの精神病院は高い塀に囲まれ刑務所にそっくりな施設で、治療も電気ショックやロボトミーなどのほかには、薬物療法がまだ進んでいなかった。半世紀後に娘のリーザがうつ病でパリの病院に入院すると聞いて、フレッドがそれだけはやめろと慌てた理由がこれで分かった。この代替兵役経験を生かし、フレッドは当時まだ少なかった男性看護師の資格を取った。

それにしても認められなければ投獄、という厳しい条件で信仰を通したとは尊敬します、と私が言うと、フレッドはにやっと笑って言った。「まだ婚約者だった妻のマーガレットは、今とは違って、すごい美人でね、審査官の一人は口を開けてぼけーっと見惚れていた。そのお蔭で通ったのさ」。イギリス人のユーモアには脱帽である。それと同時に、たとえ素朴な信仰を持っていてもそれをきちんと言葉で説得できなければ公の場で通用しない、というところが欧米だなあとも感じた。イギリス人はプライドの高い国民だから、法律で認められていると言っても兵役拒否は恥とされて、「コンチーズ」という蔑称で呼ばれ、昔は臆病者のしるしの白い羽根を襟につけねばならなかったそうだ。このため義父は申請に反対したという。

しかしイギリスにはすでに18世紀から絶対非戦主義のクエーカー教徒(プロテスタントの一派)が兵役を拒否していた。第二次大戦で徴兵立法が通ったとき、6万人のクエーカーが拒否して投獄に甘んじたという。正直、勤勉、慈善という高いモラルで社会から尊敬をかち得ていたクエーカーだからこそ、独自の行動を貫けたのだと言える。しかしその他の国で兵役拒否が権利として法制化される以前は、死も辞さない強い意志が必要だった。実際死刑になった例は数多い。イギリスの徴兵制は1960年に廃止され、縮小された職業軍が国防を担うことになった。

フランスは革命以来、市民が国家の主人という「リパブリック」の理念から、軍は「国民軍」と位置付けられ、兵役は市民的義務であった。今年96歳になる知りあいの神父さんも、第二次大戦初期に兵役を果たしたそうだ。イギリス同様戦後に代替兵役の権利が保証されるようになり、我々の親友ジャンマリーはアフリカの高校で2年間代替任務の教師を務めた。シラク前大統領により、2001年に完全廃止。職業軍は海外にも積極的に派兵されている。

あくまで外国人の観察だが、フランスでの軍隊は国民に愛されている感じがする。建国記念日にあたる7月14日(フランス革命でバスチーユ牢獄が解放された日)には、今日でもフルスケールの軍事パレードがシャンゼリゼからコンコルド広場まで繰り広げられる。ロシア、中国、北朝鮮などで国威発揚のために軍事パレードがあるのは知られているが、欧米民主主義国では例外だ。今年は第一次大戦100周年なので欧州各国の若者たちが平和の白鳩を放った。

さてドイツはというと、ヒトラー政権下では無論兵役拒否は精神病院入りか銃殺だった。 第二次大戦後ドイツは東西に分断され、まさに冷戦の最前線であったから、徴兵制は無論続いた。しかしその一方で新しい西ドイツの憲法では、良心的兵役拒否の権利が基本権として明文化された。東西統一後もその憲法が引き継がれている。ドイツは第二次大戦の過ちを近隣諸国に謝り続けた。歴代大統領、首相は各国で犠牲者の記念碑に跪いて献花した。こうしたたゆみない政治指導者の行為によって、周辺国から信義を認められ、アフガニスタンに国連多国籍軍の一員として初めて派兵された。敗戦した軍国主義国家が外国に派兵するには、こうした長い地道な努力の積み重ねによって周囲から承認を受けることが必要なのだ。修正的歴史観を唱え、周辺国のつよい非難を浴びながら、勝手な転回ができるものではない。

ドイツも2011年には徴兵制を廃止した。これを知らず、いまだにドイツのことを引き合いに出す日本の防衛族政治家がいるから恐ろしい。ヨーロッパでまだ徴兵制が残っているのはギリシャ、キプロス、フィンランド(対ロシアの備えがいつも必要な国)くらいなもの。冷戦が終わり、ヨーロッパが政治的軍事的に安定地域となった、という条件を踏まえての変化である。対照的にロシアやイスラエルは徴兵制を固持している。

日本では明治以来、徴兵制はあれど代替兵役はなかった。敗戦後はそもそも軍隊を持たない理念に立つ憲法下にあって、代替兵役を考える必要がなかった。しかし現政府が憲法を無視する手続きにより解釈変更を強行し、このさき攻撃力を用いた戦争ができるようになると、これまでのように安心してはいられない。

対話外交より軍事対立をあおる現政権のもとでは、いつか近隣諸国との軍事衝突が起きるだろう。先の戦争で見た通り、日本は一端戦闘が始まってしまうと、決定的になる前に終息させることが苦手だ。いやな想像ではあるが、本格的な国と国との戦いにまで発展してしまえば、徴兵復活もありえないとは言えないだろう。(毎日新聞8/15 安倍政治どうですか1 藤井裕久・元財務相

http://goo.gl/y5HiUh

若い人はここをしっかり認識してほしいと思う。先の参議院議員選挙で20歳代が異例に高い投票率を示し、右翼政治家への支持が注目された。この新現象の大きな要因が、インタネットによる情報の急な拡大にあったことは、良く知られている。真偽を確かめ自分の頭で考えることなしに、狭いひとつの見方が野火のように広がる。ナショナリズムに踊らされ、ぼろきれのように命を使い捨てにされてもいいのか。個人の良心が人権だという哲学が日本にはない。徴兵制が復活するとき代替兵役はないものと思わねばならない。平和に慣れた戦後生まれは、憲法無視が何を招くのかを、この期に及んでもはっきり認識していない。若者よ、目ざめよ。

 

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