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~嗚呼、ああ、「懐かしき我がジャンボ機」、747-400型機の出現があっても、ジャンボ機といえば、これなのです。~

『コンベンショナルという呼び名』

メディアでは、「クラシック ジャンボ」と呼ばれているようですが、日本で一番この飛行機を所有し、かつ運航させてきた日本航空JALのなかでは、ハイテクの象徴747-400が投入されても、「在来機」あるいは「コンベンショナル=従来の、という意味です」と呼ばれておりました。「クラシック」などというのは、いったい誰が命名したのでしょうか。不思議です。私の個人的な思いではあるのでしょうが、「あの名機」をけなされているようで違和感があります。

報道にもありますように、コックピットは3名、つまりパイロットだけではなく航空機関士が乗務しており、航行中の飛行機のシステムに異常はないか、客室内のシステムにも眼を光らせ、多少のトラブルは、航空機関士が現場に足を運び、適切な判断を下しておりました。400型になれば、すべてコンピューター任せになり、パイロット(機長・副操縦士)への負荷も増大します。したがって、パイロットに命を預ける私達も、3名仕様の400型にせよと正面から問題提起していた歴史があります。コスト削減をすべきパートではない、安全を維持しようという考え方があるならば、「4つの眼より6つの眼」ということです。皆様ご存知のように、エアラインがボーイング社に機体をオーダーする場合は、各社によってスペックがちがいます。車で言えば、標準仕様にオプションをつけてゆくようなものです。

400型が導入された当時は、ヨーロッパのエアラインの中には、3名仕様で運航しているところも現実にありました。

だいぶん、よわいを重ねてきた私達の世代にとって、乗員も乗務員も、また、乗りなれた当時の旅客の皆さんにとっても、「ジャンボ機は、永遠のまた、大切なメモリー」なのだと思います。

思い起こせば、高度成長期に日本の屋台骨を背負うように、世界を飛び回っていた「商社・銀行・自動車・電器など」の精鋭の方たちが、暗くなった機内で、ポツンと点けられた「リーディングライトの明かり」の中で、レポートを書かれている姿は、未だに、忘れられません。ここにもジャンボ機がお供をしていました。

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日本の象徴、富士山を背負いながら飛ぶジャンボ機です。尾翼は、日の丸を彷彿させる「鶴丸」です。

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国内線は、こういう「タイムテーブル」でした。  (お分かりと思いますが、左は西田敏行さん、右は斉藤慶子さんですね。)

国際線では、「NO1」となった部門もありました、ジャンボ機と呼応した成長です。

B7471 シアトルのボーイング社からデリバーされる「ジャンボ一号機」です。

また、下の写真は機内で配布していた当時の絵葉書です。保存してあります。

Jal6_2                                 Jal4_3 国際線のファーストクラスは、豪華な素材と丁寧かつ人員も配置されておりました。ホノルル経由ロスアンジェルス便は、当時の花形便で、真っ先に「ジャンボ機」が投入された路線でもあります。着物を着用したスチュワーデスが3名も見えます。背景(機首部分)は、日本画が描かれています。現在ファーストクラスは、大体11席程度ですが、このころは、最大32席までありました。キャビアも黒の下地は黄金に輝く粒の大きいものでした。

客室乗務員の編成数も、基本が17名、最大20名という「快適なサービス」を提供していたものでした。同じホノルル便でも14名となり、現在では、外国人(タイ人)中心のJALWAYSが運航するようになりました。

「世界一の安全と快適性」を誇った「JAL」は、「格安と燃油費のハザマの中」、どこに焦点を当てて進むのでしょうか。

ついつい画像が中心になってしまいました。もう少し次回にお話をしたいと思います。

One thought on “70
  1. このころは、ビジネスクラスはあったのでしょうか・ その分ファーストクラスがおおかったのでは。

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