「CM」が気にかかる・・・。

~新年そうそうですが、ちょっと気にかかります~

2008年を迎えて、ひとときの平和な気持ちを味わっておりましたが、ちょっと「気にかかる」テレビCMがありました。  JALのものです。

数年来、利用者から「安全」についてやや敬遠をされてきている中で、新年からあらためて「安全・安心」を謳うところに、目的はあったのだろうと推察致しますが、私のように「JALと共に日本の空の発展の歴史を歩んできた」者にとっては、皆様が何も感じないところまで、神経が触れてしまいます。

さて、気になるところと言いますと・・・・・・。

~「CM」とは・・・。~

まずは、パイロット1期生の小田泰治氏を登場させています。

小田氏は初代日本人パイロットとして、DC-4型機以降の機長を歴任。と紹介されています。敢えて、初代日本人として紹介されているのは、それなりに意味があります。

かつては、日本航空といっても、パイロット特に機長は、今で言うパイロット派遣会社(IASCO)から派遣された外国人が多く、次に自衛隊出身のパイロット、そして航空大学校出身者、自社養成、という模様でありました。日本の翼としては、一日も早く日本人パイロットによる運航を、と言うのが社としての悲願でもあった訳です。そういう意味では、初代日本人機長ということは、ナショナルフラッグの「誇り」も感じられます。

ちなみに外国人機長の年収は、当時日本人機長のそれより倍かそれ以上あったと聞いています。機長・パイロットの日の丸化という精神的な面と「コスト」面でも、急がれていたことが良く理解できます。しかしながら、昨今の「コスト削減の大合唱」のなかで、「外国人化」へと逆流を起こしていますので、なんとも皮肉な話です。

ちなみに、客室乗務員は?といいますと、ご存知のように、西洋では、ロンドン/フランクフルトをベースとしてEU諸国の方々、南米からはサンパウロベースのブラジリアン、東洋は、香港・シンガポール・バンコック・台北・上海をベースとした面々で機内サービスは繰り広げられています。精神的には「日本の翼と言うよりグローバルを」というお話もありますが、「コスト」の問題というのが衆目の一致するところです。

さて、画面の中で小田氏は・・・。

小田氏

「全世界のサークルのルートにも最初にタッチしたし、特にソビエト経由でヨーロッパ行くコースを直接私は、切り開いて、お客さんには安心して飛べるということが出来たんではないかとおもうんですね」

そして、テロップ  「私たちのすべてを、お客様の安心のために。」

続いて現役キャプテンらしき方が「お客様のやすらぎと楽しみ、こういったものを乗せて空を飛ぶ、これが我々の誇りでもあり喜びでもあります」と続きます。

テロップ  「品質で飛ぶ。」

そして、パイロット・客室乗務員・グラウンドスタッフ・整備スタッフという運航の現場が勢ぞろい、という映像です。

~モスクワ線は、パイロット個人が切り開いたのか~

私は、それまでの日ソ共同運航(ソ連のイリューシャンだったと思います。)からようやくソ連政府からの上空飛行を許されて、JALの自主運航開始の運びとなったのでした。1970年頃、ジャンボ機が華やかに太平洋路線に就航したちょうど同じ時期でした。

モスクワ線開始以来私は、1970年頃から約3年間、このモスクワ線に張り付いて乗務をしてきた経験があります。当時のロシア(ソビエト)は、物資も少なく、輸送も時間がかかる、ホテル事情もインツーリストという国家そのものが代理店の役割を果たしていて、何事も許可がなければ身動きひとつ出来ない窮屈な有様でした。空港は、つい最近新しい空港への移転が決まったようですが、名うての「シェレメチボ空港」でした。私たちが宿泊指定されていたのは、「ホテルウクライナ」で歴史あるホテルですが、チェックインに1~2時間待たされ、エレベーターのない最上階まで、階段で重い荷物を運ばねばならない、ホテル内のレストランに行ってもオーダーしてから1~2時間待たされるのは当たり前、という風景でした。およそ、サービスという概念がない国でしたから、支店・空港支店の開設、機内搭載品の調達などは、地上職員が大変な苦労をされたものと聞き及びます。

ついでに、この路線(東京/モスクワ)は、サンフランシスコと並んで直行した場合9時間を越えるフライトタイムになると言うことで、乗員(パイロット)乗務員(CA)の交代要員を乗せる(途中で休憩を取るために)ことで問題になった路線でもありました。簡単に言えば、パイロットは、通常3名のところを1~2名増やし、2~3分割で休むという条件でした。休む場所は、当時の機材は、DC-8-62でしたが、ファーストクラス旅客用のラウンジをベッドにし、離陸と同時に休む、という形でした。一方の客室乗務員は、台所内のごみの山の横に毛布を敷いて腰を下ろすだけ、という「人間とその他」の扱いでした。モスクワ事故後にこうした問題も提起されて、その後に客室乗務員の休憩するスペースも確保されるようになりました。乗務員だけではなく、搭乗している旅客も、今のようにエンターテインメントがあるわけではなく、しかも狭いDCー8の機内ですから、長時間閉塞での精神状況は、今では考えられないくらいのものがありました。

~モスクワ線開設は、発展の歴史ではありますが・・。~

アラスカ経由の北極廻り線よりも数時間利便性が増したことと引き換えに、人間の尊厳とは何かを自問自答させられる毎フライトでした。DC-8型という機材を使用し、開設されたこの新路線での思い出では、「安らぎと安心」に結びつくものが、どこにあるのかあまり感じ取れません。

開設当時のパイロットは、安全運航のために多大な力を注がれたことはいうまでもありませんが、ここでいう「パイロット個人が切り開いた」と主張されるのは、異なる次元で、悪くすれば単なる自慢話に聞こえてしまうのではないかと危惧します。

大きな問題は、これを会社としてCM化するなど、「古き体質」がなにも変わっていないのではないかという疑問が起きることです。「1社しかない国際線独占」のよき時代を「誇示」し、懐かしむものではありますが、「安心」の基盤というには、少々無理があるのではないでしょうか。

それまでヨーロッパに行くには、アラスカのアンカレッジを経由し、北極のまじかを飛ぶ「北回り欧州線」か香港・バンコック・ニューデリー・テヘラン・カラチ・カイロ・バーレーン・アブダビ・アテネなどアジア中東を経由してゆく、南回り欧州線しかなかったところを、「大圏コース」というシベリア上空を まっすぐにヨーロッパに飛ぶと言う点では、画期的な路線新設であったことは、間違いありません。 この大圏コースは、現在のヨーロッパ直行便のルートでもある訳ですから、大きな分岐点であったことは間違いありません。          「 

しかしながら、もともと航空路の開設は、国家間で始まり、たまたま「ナショナルフラッグキャリアとしては、JALしか存在しない」という条件の中で開かれたものです。政治・外交あっての開設だったのではないでしょうか。エアラインだけで相手が出来る国家体制であったとは到底思えません。

次に、問題なのは、「路線を開設したから、お客に安心して飛んでもらえるようになった」といっていることです。意味不明です。それまでの「北廻り・南廻りのヨーロッパ線は、安心して飛んでもらえる路線ではなかった」という論旨になります。

更に、申せば、モスクワ線では、1973年11月29日、シェレメチボ空港において、離陸後に失速、墜落炎上、63名死亡という事故まで起こしました。この年、日航は6月には「ニューデリー」でも大事故を起こしていました。多くの乗客の皆様と共に、私の先輩・同僚も運命を共に致しました。あのとき、モスクワ線を乗務していた私が当該機に乗っていてもなんら不思議がなかったわけですから、リアルです。現在私が利用者の立場に立った「評論」を志す、原点と言っても過言ではありません。

申し上げるのも、億劫なのですが、具体性のない、抽象的なこういう宣伝は、いやというほど見てまいりました。

~ポイントを外さず、「安全・安心」を誇示してもらいたい、という気持ち~

「安心・安全」とは、具体的に「整備をシンガポールや中国に外注化して不具合を起こした」問題にはどういう安心をくれるのか、エンジンやら機体やらコンピューターを含むシステム整備をすべて子会社に委託することが、これまでよりどう安全安心なのか、「監視ファイル」などチームワークを断裂する問題は、どんな処断をするのか、したのか、などに堂々たる答を出して世に問う姿勢が大事なのではないのでしょうか。

リストラリストラと騒いで、部長・次長・課長級から早期退職者を募ったところ、募集よりも数百人多くのものが辞めることを希望したという実態だそうです。見限るものまで出てきたとは、言えませんが、これで今のJALは大丈夫なのだろうか、と心配になることもあります。

甘いささやきだけの「イメージ広告」は、トラブルが発生した時には逆の作用をもたらすのではないでしょうか。

現場とは遠く離れたセクションとはいえ、「CM」ひとつ、慎重にチェックすることができないのか、とも感じてしまいます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です