「YS-11」が奏でる、ものがたり。

~日本のエアラインの栄枯盛衰?~
YS-11は、戦後初の国産旅客機で、レシプロとジェットの中間とも言われるターボプロップエンジン搭載ということで、当時華々しくデビューしたものでした。
 日本航空は、福岡=プサン線にそれまで就航させていたDC-6B型機に代え、1969年(昭44)4月1日に当時の日本国内航空から乗員つきでリースして、YS-11A型機(JA8717、「あそ」号)として、大阪=福岡=プサン線を、週3往復で運航しました。 しかし、時をおかず、翌年4月には、B727型機へと機種変更を行いました。
当時の国内幹線は、ANAのビッカースバイカウント機に対抗の機種として既にジェットの幕開けのスターとして「B-727」が主役の座を待っていたわけですから、「YS-11」誕生の時代が不運であったともいえるでしょう。
こうした、時代背景で、日本航空では、実質的に誰も(運航・客室乗務員)乗務していないわけです。
この飛行機がバリバリに飛んでいるころは、羽田空港が国際線を含め日本の空の玄関として機能していた時でもあります。
羽田空港内にあるオペレーションセンターを基地として乗務にあたり、同時に労働組合の役員も務めていた私にとっては、「このYS機材には、乗務したことはない。」といっても、思い出には、格別なものがあります。いわゆるハンガー(格納庫)に隣接した労働組合事務所の窓越しに、YSの勇姿を絶えず見ていたこと、ターボプロップ特有の「キィーン」というエンジン始動時からタクシングして誘導路に入っていくまで、の「音」には、好むと好まざるとにかかわらず、しばらくは、会話を中断して、じっと待たねばならなかったことです。その折は、単に「うるさい!」としか感じなかったことも今は、「貴重な記憶のレコード」となるような気がします。
この「YS-11」の所有会社は、当時の日本国内航空、から東亜航空と日本国内航空が合併して、東亜国内航空となり、更に日本エアシステムとなり、そのJAS(日本エアシステム)がJALに実質吸収された形になった今、JAL、(正確にはJALシステム )で退役を迎えたことになる訳です。
この「YS-11」の誕生デビューから退役までのヒストリーは、そのまま、日本の国内民間航空の歴史というか、「栄枯盛衰の物語」を奏でているようでもあり、一種複雑な心境にさせられます。

”こころ”の こころ意気! ~続・NHK朝の連続ドラマを見て~

浅草の老舗鰻や「清川」の家に生まれた主人公「こころ」は、ついこの間まで、客室乗務員として、空を飛んでいました。しかし、翼をたたみ、家業を継ぐことを決断しました。
先々代店主というのか、「こころ」の祖母役の岸恵子さんの演技ですが、見事というほかありません。(勿論、脚本ありきなのですが)
気丈に生きてきた人生のはずなのに、懐の広さ、こころの大きさ、そして浪漫と自由闊達の精神を持ち合わせた不思議な女性を見事に演じ切っていると思います。
この祖母あっての、「こころ」の決断なのでしょう。
昔と違って、いまは、誰でも外国へ手軽にいける様になりました。ブランド物も日本でもたいした値段の差もなく買える様になっています。
「客室乗務員になることの魅力」は、だいぶ割引になってきています。しかし、仕事としていざというときは、”命をかけても”頑張らねばなりません。この点は、テロなど含め予測できないことが空の上で起きるなど、かつてより、使命が重くなっていると思います。
にもかかわらず、たとえ、「契約社員」でも、「どうしても客室乗務員になりたい」という女性が多いことは、報道されている通りです。
空を飛ぶということは、そういう理屈を越えた、摩訶不思議な何かがあるとしか思えません。
主人公「こころ」もそうした思いで、フライトを重ねていたでしょうし、空を飛ぶという仕事へのプライドもしっかりと持っていたに違いありません。
しかし、彼女は決断しました。
文字通り、空から戻って「足を地につけて家業を継ぐ。祖母が、母が、大切に守り育ててきたものを、自分が引き継ぐ。」ということです。
店の者にも、言っているように、中途半端でなくゼロからやる、との決意を示しました。
大変な道が待っています。でも、大丈夫。「こころ」は、「限られた時間のなかで
正確な判断を下さなければならない」能力を、機内の仕事の中で充分磨いてきました。これこそ客室乗務員のエッセンスです。
「こころ」の”心意気”に大きな拍手を送ります。

星降る夜に!(5)~光りにも、匂いがある~

モスクワのこと、からでしたね。
シェレメチボ空港に降り立ったとたんに、香りというか、「匂いの洗礼」で始まります。ここは、ガソリンのオクタン価が低く独特のにおいがします。ブラジル・リオデジャネイロやメキシコシティーにも似た匂いがした気がします。
また、当時は、「サービス業、あるいは、サービスという概念」がないに等しく、ホテルチェック インからバゲッジを部屋に運ぶこと、ひとつとっても、時間がかかることおびただしく只ただ我慢の子でいなければなりません。運良く、一流ホテルに滞在していましたが、食事もホテルのレストランでさえ、メニューは知れていましたし、硬いステーキ、しおれた野菜、出てくるまでに少なくとも1時間は待たされる、という具合でした。
そんなことから、食事は、殆ど「ホテルで自炊する」ということになってゆきました。はじめは、ご飯を炊いて、ボンカレーぐらいでしたが、そのうち、次の飛行機がくるまでの壮大な待ち時間(行きと帰りをあわせると1週間)を、いささか、持て余している事もあって、数日間の3食のメニューを考える、市場に食材を手分けして買いに行く、料理する(電熱器を日本から持っていって置いてありました。)と段々自炊も本格的に凝ってゆくこととなりました。
時々は手を抜いて、レストランにお米を持ち込み、シェフに頼んで炊いてもらい、オーダーは、スープはボルシチ、アントレは、蟹肉のカンズメ、イクラのカンズメ を山盛りにしてもらったもの、味付けは、持ち込んだ醤油・ポン酢でこなしました。これはこれで、熱いご飯にイクラ食べ放題も、普段貧しい私達には、結構な大満足でもありました。勿論、毎日繰り返す気にはなれませんでしたが・・。
しかし、そんな暮らしの中で光りもありました。
このモスクワ路線を乗務する場合、当時そのパターンは、東京を出てから戻るまで10日以上かかっていました。殆どはモスクワでSTAYしなければなりませんでしたが、”一日だけ、のオーバーナイト STAY”を、乗客にとっての本来のデスティネーションであるヨーロッパのパリかロンドンで過ごせました。
文字通り、over nightで、
夕方着いて、翌朝にはまたモスクワに向け、戻らなければなりません。
こういう環境のなかで、夕なずむパリの街、その中にひっそり、白く見える「サクレクール寺院」がなんと麗しく映ったことでしょう。
優しく迎えてくれたのが、光りなのか、においなのか定かでなくなり、街の灯りが、文明の灯りのように感じてしまった者は私だけでは、なかったでしょう。
フランスパンの香りと食感はその後の私の人生のなかでも、強烈な記憶となって残っていることは、いうまでもありません。
まさに、「翼よ、あれがパリの灯だ!」には、当時の私たちの万感の思いが込められているのです。

星降る夜に!(4)~「翼よ、あれがパリの灯だ!」~

「翼よ、あれがパリの灯だ!」 リンドバ-グは、大西洋を一人で飛び、眠い目の中にはじめは、ぽつんと、やがてまごうことなくパリの街の灯りと確信したとき、思わずこう叫んだと聞いています。
快挙を成し遂げた瞬間の喜びが、まのあたりに浮かびます。
加えて、体験したものでないと発することの出来ない清新さ、風雪の年月に耐える浪漫の響きすら感じるフレーズ(言葉)ではないでしょうか。
私も、リンドバーグとは、「時代と想い」こそ違っても、パリの灯を見て、どれだけ胸を躍らせたか、ほっとしたことか、ついつい思い出の中に戻ってしまいます。
1970年代初めのことです。2年ほど、モスクワ経由のヨーロッパ便を中心に乗務しなければいけない時期がありました。ロシアではなくソビエト連邦の頃ですから、VISA発給の制限は厳しく、一定期間同じ乗務員が飛ぶ必要があったわけです。
当時、就航したばかりの、ジャンボ機は、”花の太平洋線”といわれていた、ハワイ・ロスアンジェルス線に投入されていました。そして、同時期に大圏コースと呼ばれるモスクワ経由のヨーロッパ便も運航を開始。それまでは、ヨーロッパに行くには、最短でもアラスカ(アンカレッジ)経由の北極廻り便(north pole route)通称北回り路線、アジア、中近東をめぐって行くため時間がかかる南廻り路線(southern route)しかなく、所要時間も最低20時間を要していました。この点でヨーロッパまでの飛行時間を5~6時間短縮したこのモスクワ便は、快挙であり、違う意味で華やかな幕開けではありましたが・・・。
しかし、この路線にアサインされた乗務員の殆どは、モスクワでの滞在生活を考えると、「貧乏くじを引いたもんだ!」というムードにされたものでした。
長くなりましたので、続きは次回に・・・・・。

「臆病者といわれる勇気を!」

本日、ダックスフォードの航空ショーで墜落事故発生の模様。美しい飛行も大事とは思いますが、航空ショーでの事故が多すぎます。見物には犠牲者がなかったようで不幸中の幸いですが、ぎりぎりの操縦をせまられていることが、主たる要因のように思えます。
私が、航空会社に入社した頃、”臆病者といわれる勇気を持て。”というスローガンがあり、社長から各現場への言葉として、伝えられていました。
離着陸時、ウェザーが悪い時、パイロットは、悩みます。
「スケジュールどおりにという事を優先させて、多少のリスクを侵してでも、着陸すれば、乗客からは不満も出ないし、会社としてもコスト増を防げる。
 しかし、安全を優先するなら・・・・。」
こうした状況下で難しい判断を迫られる時、この社長の言葉は、運航の現場では、何よりの支えになったと言われています。
勿論、パイロットだけでなく、多少の遅延があっても尽くせるだけの安全な整備を施した飛行機で出発してもらうことを、誇りとするメカニックのスタッフ達、何かあれば身を呈しても乗客の安全を守る客室乗務員、およそ航空の運航に携わる者
に、とってはなんと心強い言葉でしょうか。
どんな状況下でも航空事故は悲惨です。二度と同じ轍を踏まぬように!
犠牲者に合掌。